コラム
column
パラリンピックが終わって
パラリンピックが閉幕しました。
パラリンピックの遺産(レガシー)として期待されているのが、障害の有無にかかわらず、誰もが尊重しあい、自らの可能性を発揮できる「共生社会」の実現です。
ここで「共生社会」の実現に向けて、障害者に対する合理的配慮に触れたいと思います。「合理的配慮」とは、障害者差別解消法第7条2項に「行政機関等は、その事務又は事業を行うに当たり、障害者から現に社会的障壁の除去を必要としている旨の意思の表明があった場合において、その実施に伴う負担が過重でないときは、障害者の権利利益を侵害することとならないよう、当該障害者の性別、年齢及び障害の状態に応じて、社会的障壁の除去の実施について必要かつ合理的な配慮をしなければならない」と定められているものです。
障害者差別解消法は平成25年6月に制定された法律で、この法律を受けて和歌山弁護士会の規則制定に関わったことから、「合理的配慮」自体は知っていました。ところが、先日、和歌山大学の西倉実季准教授の講義を受け、目からうろこが落ちた気がしました。
一部引用させていただき、以下に述べます。問題は、合理的配慮についての解釈です。
(解釈α)
①障害者には健常者と異なる心身の異常がある。
②そのため、障害者は生活上の困難を経験する。
③それを放置することは私たちの良心に反する。
④したがって、社会的責務として配慮が提供されるべきである。
(解釈β)
❶障害者と健常者との間には心身の特性に関わる差異がある。
❷にもかかわらず、社会が健常者の特性を基準に形成され発展されてきたために、障害者は生活上の困難を
経験する。
❸それを放置することは社会的な不正義である。
❹したがって、社会的責務として配慮が提供されるべきである。
いずれも結論としては、社会的責務として配慮が必要だということに変わりはありませんが、④は障害者に対する「特別な恩恵」としての合理的配慮であり、❹は社会的な不正義の是正(「矯正的正義」とも表現されていました)としての合理的配慮です。
障害者は不自由でかわいそうだから配慮をしてあげるという存在ではなく、心身の特性は多少異なるものの、同じ社会の構成員として、その人本来の能力を発揮できるように健常者を前提とした不合理な社会や制度の在り方自体を変えていこうという考え方の転換だと思いました。
これこそが「共生社会」の実現という意味なんだろうと思います。
パラリンピックのようなイベントで突然、社会が変わるわけはないのですが、西倉先生の講演を聞いてようやく「共生社会」の本当の意味を知ることができました。